見上げていた魔王城に通うことになった話

夜、コンビニからの帰り道に見える高いビルがある。

周囲の道や建物が絶妙な配置を成しており、距離がありながらも堂々とした風格が感じられる。

辺りのビルが夜空に溶け込む中、不気味に光り輝くそのビルはかえって輪郭が強調され、自然と視線を惹きつけるような独特の魅力がある。
深夜に出歩いているとき特有の高揚感も相まって、現代版の魔王城ってこんな感じなのかなあ、などと考えながら何年もの間そのビルを遠くから見上げていた。

 

RPG的世界観のファンタジーにおいて、大半の村人にとって魔王城はシンボルでしかなく、実際に訪れたり、ましてや魔王を討伐しに行ったりするなんてことはない。私にとってもそれは同じで、日常的に見上げていながらも、そのビルは長らく生活とは無縁の存在だった。

ところがあるとき、期せずしてこのビルに通うことになったのである。

 

このビルの名はサンシャイン60。
池袋のサンシャインシティにある最も高いビルだ。

サンシャインシティにはいくつかの建物があって、その多くがショッピングモールやレストラン街、水族館などのアミューズメント施設になっているのだが、サンシャイン60は異質で、ほとんどのフロアがオフィス用となっている。

通うことになったのは、その三階。ハローワークである。

 

平日の昼間であってもショッピングモールは賑わっている。そんな人だかりの間をすり抜けるように歩いていくと、途端に静かな空間にたどり着く。そこがサンシャイン60のエレベーターホールだ。オフィスフロアへ向かうのであろう、スーツ姿の人が数名いるほかは誰もいない。
まるでボス部屋の直前に敵の現れないエリアがあるような、そんな不気味な印象を受ける。

このフロアには三十七台ものエレベーターがあるにもかかわらず、目的地である三階に止まるエレベーターは存在しない。向かうにはホールの中央にあるエスカレーターに乗っていく必要がある。ラスボスへの専用通路を通っているような独特の緊張感がある。

三階まで上がると、門のような形のコンクリート壁が出現する。そこには大きな青色の文字で「ハローワーク池袋」と書かれている。これがボス部屋への最後のゲートだ。
同じフロアにレストラン街への通路があるのだが、エスカレーターに乗っている人がどちらに向かおうとしているのかは容易に推測できる。有り体に言って、身なりや雰囲気に明瞭と言っていいほどの差があるのだ。かく言う私自身もよれたTシャツの上から適当な上着を羽織っただけの格好をしているし、他人から同じように思われているに違いない。

そう考えると、我々は魔王城で働く雑兵なのではないかと思えてくる。魔王城へ向かうのは勇者一行だけではないのだ。きっと私はゴブリンか何かなのだろう。もしかすると勇者一行と戦う仕事すら与えられていないのかもしれない。

 

ゲートをくぐって中に入ってみると、(当たり前だが)そこに魔王はいない。入り口付近には明るく広いスペースがあり、壁の掲示板には求人がいくつか掲示されている。

このスペースの明るさは不思議で、入ってくるまでの緊張が無意味だったような気がしてくる。オフィスによく使われているような、ただの白い蛍光灯なのだけれど、やけに明るく感じられるのだ。おそらく無職でいると、この手の明かりの下に出る機会がなくなるのだ。

住宅に使われる明かりとは色や明るさが違うし、飲食店やその他の遊びに使う施設はもっとおしゃれな明かりを使っている。病院はもう少し薄暗い感じだし、あまり広々としてもいない。
区役所や郵便局は近い雰囲気かもしれないが、こういったところへ行く頻度は低いし、カウンターの向こう側とこちら側に大きく仕切られている感じが若干異なる雰囲気を醸し出している。ハローワークにもカウンターはあるのだけれど、”こちら側”の領域が他の役所よりも広いのだ。
その点は病院に似ているのかもしれない。あるいは、学習塾の雰囲気にも少し似ている。

入ってくるものを拒まないような印象を与える空間デザインなるものがあって、そういったものに力を入れているのかもしれない。

 

廊下を進んでいった先に広い部屋があり、そこは大きく二つに区分けされている。一つは就職支援を行う課で、もう一つは給付課と呼ばれる失業保険などの給付に必要な手続きを行う課だ。

就職支援課の前には受付があり、整理券を受け取ってから奥へ進んでいくことになる。
ここは職業相談を受けるための場所だ。中央に待機スペースがあって、端を囲うようにカウンターがある。カウンターはパーテーションで区切られていて、一つ飛ばしくらいの間隔で相談員が並んでいる。
職業相談の進め方は相談員の裁量に任されていて、人によってかかる時間も紹介される求人も大きく異なる。どの相談員にあたるかは完全に運なので、ハズレの相談員に一度あたるとしばらく職業相談に行きたくなくなる。失業保険を受け取るためには四週間ごとに最低二回、職業相談を受けるか求人に応募する必要があるので、嫌な方から逃げた先にあるどちらかを行うことになる。このせいで魔王城に何度も通う羽目になるのだ。

給付課はいかにも役所といった雰囲気のあるところだ。職員は非常に事務的で、人々が持ってきた書類を機械的に処理していく。書類に不備があると笑顔も見せずに突き返してくるので、たまに求職者との間で喧嘩になっている場面に出くわすことがあるのだが、私はどちらかというとこの給付課の職員たちの方が好きだ。やるべきことさえきちんとしていれば、なんら不利益を被ることはないからだ。相手の行動が自分の行動によってのみ決まっているという感覚が、私に安心感を与えてくれる。
ここでの不満は待ち時間が長いことだ。給付課には四週間に一回通うことになるのだが、行くべき時間が三十分単位で定められている。言われた時間に行かなくてはならない。午前中はとても混雑していて、椅子に座って待つこともままならない。運良く午後が指定されると、求職者は午前の半分くらいしかいないので混雑を避けることはできるのだが、対応にあたる職員も半分くらいに減らされていて、結局午前と同じく一時間以上待たされることになる。読書が捗るので、どちらかといえば有意義な時間ではあるのだけれど。

 

そうして手続きが終わった後は、ショッピングモールがある区画に戻り、食事をしてから帰るのがいつしかルーティーンとなっていた。落ち着いて食事をしていると、なんだか現世に帰ってきたような感覚になるのだ。
行きは煩わしいと感じていた人混みが、むしろ自分にとって大切なものであるように思えてくる。自分はまだ今まで通りの日常の中にいるのだと、そう教えてくれるような感じがするのだ。映画館から出たときの感覚に近いかもしれない──。

 

 

 

そんな魔王城に通っていたのも、もう半年以上前の話だ。

失業保険がもらえる期間には制限があって、給付が終わればハローワークへ通う必要はなくなる。
じゃあそれ以降は何をしていたのか。それに答えるのは難しい。期間に見合うほどの有意義な日々は送れていなかっただろう。

だが最近、運良く私を雇ってくれる会社に出会うことができた。想定よりもはるかに長くなった無職生活も、とうとう今月でおしまいだ。この生活を締めくくるにあたって、何も進まなかった自分の生活を振り返ってみようと思った。何も進まない中でも、何か得たものはあったのだと信じたい。そんなふうにして得た思い出や記憶を、形にしておきたいと思ってこの文章をしたためた。これが未来の私にとって、あるいは誰かにとって、有意義なものになってくれたら嬉しく思う。

 

魔王城は今夜も妖しく輝いている。私がそこに通っていようといまいと、それは変わらない。通り過ぎた過去にも、連綿と続く現在がある。そんな印象を抱いた。

未来は見通せなくても、過去は何かを残す。将来ふとしたときに魔王城を見上げ、そこへ通っていた日々を思い出すことがあるだろう。きっとこの記憶が未来の私の力になってくれる、そんな予感がしている。

だってそうだろう? 魔王城には魔力が宿っているのだから。

 

インフルエンザ、時を超えて。

先週、インフルエンザにかかった。

インフルエンザには過去六回ほどかかったことがあるが、体感では今回のものが一番苦しかった。年齢のせいなのか、例年よりウイルスが強力だったのかはわからないが、高熱で思考力がやられ、全身の関節が痛み出すあの感覚はインフルエンザ特有のものだった。

記憶が正しければ最後にインフルエンザにかかったのは八年前。この八年の間にインフルエンザ界隈には大きな変化が起きていたようだ。

それは新薬、ゾフルーザの登場だ。

インフルエンザの薬といえばタミフルリレンザしか知らなかったものだから、病院でゾフルーザの名前を聞いたときは心配になった。普通の風邪薬を処方されそうになってない?と。

「帰ったらすぐに飲んじゃってください」と医者に言われ、帰宅後に早速薬を取り出してみると、なんと一回分しか入っていない。慌てて説明書きを確認すると、どうやら正しそうだと分かり、とりあえず服用する。飲んですぐに何か違いがわかるなんてことはなく、高熱に苦しみながら頓服薬を飲んで眠りについた。

翌朝、体調は全く良くならず、依然として高熱に苦しんでいた。記憶の中では、インフルエンザは薬さえ読めば翌日には楽になっている、というイメージだったので、ますます薬への不安が湧いてきた。そうして悶々と苦しんで過ごしていたのだが、夕方あたりにフッと身体が軽くなった感覚があり、熱を測ってみると微熱程度まで快復していた。これは不思議な感覚だった。その後は他の症状が落ち着いていくのをただ待っているだけでよく、無事に健康な状態に戻ることができた。

治ったあとで振り返ってみると、服用が一回で良いというゾフルーザはなかなか素晴らしい薬だと思う。一回飲めば良いということは、薬を飲んだ瞬間に治療はすでに完了しているということだ。すでに最善が尽くされているという感覚が、療養中の気持ちを少し楽にしてくれる。ここからは良くなっていく一方なんだと思うことができる。

薬価が少し高いのがネックのようだが、自己負担分では数百円の差でしかない。

 

自分の知らないところでも、人類は進歩を続けている。今回のインフルエンザとの格闘でそんなことを感じた。

スポーツクライミングが最高にオリンピックだ!

オリンピックが閉幕して一週間経つ。

この夏はとても楽しませてもらった。

スポーツの祭典。

オリンピックでは、普段見ない競技をたまたま目にして面白さに気づいたりするものだ。

 

 

オリンピックは基本的にTVerで見ていた。

TVerではまず競技を選択し、次に日程の中から見たい動画を選ぶ。

競技の一覧画面を見ると、知らない競技・見たことのない競技がたくさんあることに気づける。

 

見たい競技が始まるまでに若干の時間があいていた。

それで何の気なしに、本当に何の気なしに、スポーツクライミングをクリックしたのだ。

スポーツクライミングというのは聞きなれない単語で、恐らくボルダリングのことを指すのだろうと思っていた。

 

 

画面が切り替わり、今度は種目の選択をするように求められる。

ボルダー、リード、スピード。それぞれ男女に分かれていて、計6種目。

それぞれの違いは知らずにいたが、とりあえず馴染みのある単語である「ボルダリング」の動詞形であろうボルダーというのから見てみた。

(のちにリードとスピードも見てみたのだが、今回最も感銘を受けたのはボルダーだ。今日はボルダーについて語りたい!)

 

 

ボルダーは難易度の高い壁を登る種目だ。

もちろんリード(でかい壁をどこまで登れるか競う)やスピード(比較的簡単な壁を登る速度を競う)の壁だって素人が登れるようなものではないのだろうが、ボルダーの難易度は別格だ。高度なバランス感覚や超人的な筋力、そして並外れた度胸がないと手も足も出ないような壁。

この種目だけは途中で転落しても制限時間内なら何度でもやり直しができる。

オリンピックに出場するようなトッププロでもトライアンドエラーが必要とされるような高難易度の壁。それを登るのがボルダーだ。

 

 

オリンピックでは様々な競技が行われているが、ボルダーには他の競技にない特徴がある。

それは、作問者の存在を強く感じるところだ。

 

オリンピックの競技を大別すると2つに分けられる。1つは対人競技、もう1つは個人競技だ。

対人競技のゲーム性は単純で、決められたルールに沿って相手を倒せば勝ちだ。戦う相手が明確であるというのが特徴だと言える。

一方、個人競技というのは戦う対象が不明確に思える。もちろんメダル獲得争いを見れば明らかなように、ゲームとしては他の競技者が競争相手と言えるだろう。

だが、個人競技は自分との戦いであると表現されることもある。この文脈では、戦う対象は各選手自身の過去に出したタイムやスコアだと言えるだろう。

そしてボルダーの場合、戦う対象は目の前の壁だと見ることもできると思う。

この壁は自然に生まれたものではない。作問者(セッターというらしい)が人工的に作ったものだ。

これは他の競技にはない特徴だろう。

もちろん他の競技にだって人工的な要素はある。例えば100m走で言えば、タータンは人工的に作られたものだし、その材質によって選手は影響を受けるだろう。

だが、100m走の本質は走ることであり、タータンの材質が違ったからといって選手がゴールに到達できなくなるなんてことはない。

 

それに比べてボルダーはどうだろう?

極端な話、作問者が難易度設定をミスってしまえば、誰も登れない壁が爆誕してしまうことだって考えられる。あるいは手足の長さが一定以上無いと絶対に登れないコースだって作れるだろう。

競技の公正さを担保するための仕組みはあるのだろうが、作問者の恣意性が競技に与える影響の大きさは突出していると思う。

 

だから、ボルダーを観戦したとき、とても新鮮な気持ちになった。

こういうのもアリなのか、と。オリンピックの幅が広がっていくような。

 

ではボルダーには「オリンピックらしさ」が足りないのかと言うと、そんなことはない。むしろ逆だ。

冒頭でも言ったが、私は今回のオリンピックにおいてボルダーに一番感銘を受けたのである!

 

ボルダーのルールはこうだ。

制限時間内に壁を登る。途中まで登ると部分点がつく。壁から落下した場合、制限時間内なら何度でもやり直しができるが、やり直した回数に応じて若干の減点をされる。全4問あり、合計得点を競う。

(正確には、リードという別種目との合計点で競う)

 

何度でもやり直しができるとはいえ、壁を登るのは当然体力を消耗する。やり直し回数が増えると減点もかさむため、ボルダーは選手が壁の下で腕を組んで登り方を考えている時間が半分くらいを占める。

これはなかなかシュールな光景だ。

オリンピックの会場に詰めかける観客。盛り上げる実況。しかし選手は腕を組んでただ壁を見上げている!

そしておもむろに選手が壁に向かって歩き出すと観客が声援を上げる。拍手も巻き起こる。

 

この瞬間がボルダーという競技の好きなところだ。

選手の国籍は関係ない。観客は自国選手に限らず全員に対して歓声を上げる。

全員が望んでいるのだ。不可能に思える壁を選手が乗り越える瞬間を! 同じ人類が、我々の常識を打ち破ってくれることを!

 

選手は壁に挑戦する。しかし転落する。観客はため息をつくかもしれない。だがそのあとには必ず拍手が巻き起こる。不可能に挑戦した選手の勇敢さをたたえて。

そして選手は再び腕を組んで長考に沈む。このとき観客はすでに退屈さから解き放たれている。どう見ても不可能な壁。しかしなんとしてでも登らなければいけない。

選手は考える。観客も考える。会場が一体となって同じ問題に向き合う。

不可能だ。登れるはずがない。しかし選手は常識を打ち破ってくれるかもしれない。期待する。期待してしまう。そして選手が動き出す。観客は歓声を上げる。

 

ああ!

最高にオリンピック!

 

なんだこの一体感は。

誰が優勝するだとか、自国の状況がどうだとか、全部気にならなくなってくる。

とにかく、すごいものが見たいのだ。

登ってくれ! 誰でもいい! この不可能な壁を、心の中から取り除けない限界を、打ち破ってくれ! 魅せてくれ!

 

最初の選手がどうやっても登れない壁があった。何度やっても同じところで落ちてしまう。

見ていてもわかる絶望感。登れる気がしない。

観客は応援する。選手は何度もトライする。

しかし登れない。

観客の中に疑念が湧いてくる。問題が難しすぎるのではないか?

これは人類には登れないのではないか? 背がもっと高くないと不可能なのではないか?

 

結局、1ポイントも取れないまま選手は退場する。

観客は現実を目の当たりにする。夢と希望だけでは物理法則を超えられないのだと実感してしまう。

 

次の選手が出てくる。

より小柄な選手だ。

無理なんじゃないかという考えが頭をよぎる。

しかし観客は再び期待する。あの不可能を、超えて欲しいと願う。

 

そう、願いだ。

ボルダーは願いでできている。

だから観客は一体となって応援する。

 

選手が壁に手をかける。

歓声が上がる。願いがひとつに集まる。

その願いを背に受けて、選手が登る。登る。

 

登っている…………!

 

観客が目を見開く。

目の前の霧が晴れていく。

そして大きな歓声が上がる。

 

登っていく。登っていく!

 

不可能なんかじゃなかったんだ。

超えられる壁だったんだ。

願うことを、諦めちゃいけないんだ!

 

選手が途中で転落する。

でも、もう誰も諦めちゃいない。

魅せてくれると確信している。もう一度、希望を。

 

選手は再び登り始める。

会場はお祭り騒ぎだ。

ひとつ、またひとつと岩をつかんでいく。

先程の再現のように、すいすい登っていく。

 

希望とは力だ。

 

転落した地点まで到達することを、誰もが確信している。

未来が予見できる。

願いが現実になる。

 

選手は登る。どこまでも登る。

そして最後の岩に両手を置く。安定姿勢をとる。審判が札を上げる。

完登だ!

地響きのような歓声が上がる。選手は壁から飛び降りてガッツポーズをする。

 

願いが叶ったんだ! 夢が実現したんだ!

心にこみあげてくるものがある。自分にも何かができる気がしてくる。

世界が、希望にあふれていく。

 

 

オリンピック!

これこそがオリンピックだ!

素晴らしいものを見た。

最高に、オリンピック。

スマートバンドが気になりすぎている

スマートバンドなるものがTwitterのTLに流れてきた。

知らないうちにスマートウォッチの呼び名が変わったのかと思ったのだけど、どうやらスマートウォッチとスマートバンドは別物らしい。

機能を落として小型化・軽量化が図られたものがスマートバンドだ。

 

でも、そんなことはいいのだ。

スマートバンド。もう音の響きがかっこいいじゃないか。

 

ウェアラブルバイスと言えばApple Watchのイメージがあった。

だが発売された当初はまったく関心がなかった。電子機器を腕に巻くことにメリットを感じなかったし、どうせつけるなら普通の腕時計のほうがかっこいいと思っていた。

 

今調べてみたところ、初代Apple Watchが発売されたのは2015年のようだ。つまり、9年前の印象のままウェアラブルバイスに関心を持たずに生きてきたことになる。

それが、たまたま目にしたツイートにより自分の中での評価が反転したのだ。以前の評価を今と比較してみるとざっとこんな感じになる。

 

1. 価格

Apple Watchは高いというイメージがあった。実際、6万円くらいする。

だがスマートウォッチはどうだろう。

たとえば、Xiaomi Smart Band 8は4,980円で販売されている。

www.mi.com

(上記はアフィリエイトリンクでもなんでもないので、自由に踏んでもらって大丈夫だ)

 

なんて安さだ!

しかも欲しい機能は全部そなえている!

口コミを見ても不満の声はほとんど見当たらない!

どう考えても「買い」だ。

 

2. デザイン

Apple Watchがこの世に誕生するまで、腕に電子機器を巻き付けるという発想はなかった。だから、Apple Watchを知ったときはとても奇異なものに映った。

広告を見てもそう感じたし、実際に装着している人を見たときもその印象は変わらなかった。

なんか腕にゴツゴツした黒いものを巻きつけている人。それがApple Watchを使っている人を見たときの印象だった。

 

その印象は今でも大きくは変わっていない。

もちろん、目が慣れて奇異さは薄れてきたものの、ゴツさは同じだ。これは他のスマートウォッチを見ても感じる。

 

だが、スマートバンドの場合はどうだろう?

見てくれ、この美しいフォルムを!

www.mi.com

(これはステマでも案件でもない。安心してリンクを踏んで欲しい)

 

バンド部分とほとんど太さの変わらないボディ。なんてスタイリッシュなんだろうか!

なんなら腕時計のほうがゴツい見た目をしているじゃないか。

 

さらに、バンドの付け替えができるらしい!

別売りのバンドを買えば、使用するシチュエーションごとに異なる雰囲気を出すことができる。

やっぱりこれはどう見ても「買い」だ。

 

3. 健康への意識

Apple Watchが発売された当初に関心がわかなかった理由の一つに、健康への意識の低さがあったと思う。

2015年当時、私はまだ大学生で、健康になんて気を配らなくても健康体だった。

心拍数も、血中酸素濃度も、歩いた歩数も、全部に関心がなかった。気にする必要はないし、むしろ気にしてたら不健康になるよ?、とさえ言っていた。

 

それが今はどうだろう。

限られたリソースの中で、いかに翌日に疲労を持ち越さずに一週間を乗り切るか。栄養と睡眠のどちらが大事なのか。睡眠の質をどうやって高めるか。これは年齢のせいなのか、労働のせいなのか、運動不足のせいなのか。

そんなことばかり考えている。

 

だからこそ、スマートバンドだ。

www.mi.com

(これはアイキャッチだ。目を引く色をしているだろう?)

 

健康に必要な情報はスマートバンドが計測してくれる。ヘルスチェックアプリがデータを集計してくれる。そして私は健康になる。

なんて素晴らしいんだろう。

つまりこれは「買い」だ。

 

 


 

そんなわけでここ数日、暇さえあればスマートバンドのことを考えている。

 

考えてしまう。

気になるんだ。

気になりすぎている。

たすけてくれ……。

平日の休みの活かし方を教えてくれ

今週一週間休みを取っていた。

特に旅行などの予定があったわけではない。単にしばらく仕事から離れたくなったのだ。

phenox.hatenablog.com

先週末は海の日があって、3連休だった。そこから平日を休みでつないで、9連休。それが今日、終わってしまう。

 

今回の休みは、ほとんど予定はなかったものの、テーマはあった。それは会社を辞めたときの生活をロールプレイすることだった。

やってみてわかったのは、意外と平日の過ごし方が難しいということだった。

「一日中暇なんだから遊び放題じゃん!」というのが最初のイメージだった。最初の平日はゲームをしたり読書をしたりした。

次の日は午前中に役所と郵便局に行った。昼食も夕食も外食をし、なんだか充実していた。このときは平日を有効活用できている実感があった。

3日目あたりから様子が変わった。せっかくだからどこかへ出かけようかと考え、行き先の候補を調べていた。でもあまりしたいことが思いつかなかった。平日なので一緒に出かけられる友人もいない。旅行やドライブも考えたが、特に行きたいところもない。こういうのは出かけてみれば気分が変わるものだと自分に言い聞かせるも、どうにも気乗りしなかった。無職生活のロールプレイだと思うと、数千円程度の出費ですら気が引けてしまった。そうやってああでもないこうでもないと言っているうちにだんだん調べるのも億劫になってきて、家で過ごせばいいやという気分になってきた。

せっかく休みなのだから何か特別なことをしようと、創作だとか料理だとかのことを考えてみるも、もはやそれすら億劫に感じてしまい、とりあえずゲームをした。買ったままになっていたゲームなどを消化しようと試みるも、どうやらゲームをする体力も有限のようで、途中で飽きてしまった。ゲーム自体がつまらないというよりは、頭が疲れて集中できないといった感じだ。

一度こうなるとつらかった。動画などを見るのも疲れてしまい、ほかにすることがない。今思えば散歩に出かけるなどすればよかったのだろうけれど、疲れ果てているときは行動選択の判断もにぶっているのだろう。このときは寝て過ごすくらいしか思い浮かばなかった。

軽い絶望感があった。休みをとっているのにどうして疲れ果てているんだろう。この先どうやって生きていけばいいんだろう、と。

4日目も同じだった。何もしていないのに疲れて昼寝をし、起きてからは何かを取り戻そうと無意味に夜更かしをする。ずっと頭が重くて、活力がわいてこない状態。

こうして4日間の平日が終わった。日に日に暗い気持ちになっていくのは予想外だった。今後の生活に不安を覚える結果となった。

次の日は予定があり、人と会った。これだけでだいぶ気分が晴れた。活力も心なしか湧いてきた。だから平日にどうにか人に会う方法を見出せれば解決するのかもしれない。経験上、ある程度深い付き合いのある人と会う必要がある。初対面など関係が浅くて今後も話さなそうな人と話すと、余計に孤独感が募ってきたりするのだ。何か平日に会えるコミュニティを見つけるか、平日夜に誰かを飲みに誘うか。すぐに思いつくのはこのあたりだろうか。ただ、金をあまり使いたくないという気分になると人と会うのも難しくなってくるんだよな。平日にバイトを入れるのが正解なのかもしれない。

 

連休中、仕事を続けてもいいじゃないかという気分になったこともあって、そのときは一瞬迷ったのだけれど、こうして連休の最終日を迎えたらばっちり労働の拒否反応が現れ出した。会社なんて行くもんじゃない。この判断は固めてしまおうと思う。

 

こうしている今も現実逃避を続けているわけだけれど、さすがにそろそろ寝ないといけない時間になってしまった。はやく大型連休こないかなあ……。

無能は貯金額を数えてはいけない

貯金額と生活費を計算し、「一年くらいは遊んで暮らせるんだな〜」と思ってしまった瞬間に、もとから低かった労働意欲が完全に消滅した。

 

会社での立場は入社時点からやや特殊だった。

経験値とスキルが物を言う業界に、完全未経験で入社した。同期に同じ経歴の人は存在せず、研修時から疎外感を覚えながら日々を過ごしていた。

どちらかと言うと弁が立つほうだったから、当初はその特殊な経歴をむしろ自分の特徴として前面に押し出すことで潰されずに済んだ。周囲の人々のバックグラウンドが似通っているからこそ、「そうでない自分」として言いたいことを言えたし、聞いてもらえた。

不足しているスキルの獲得はぼちぼち進めていこうね、という雰囲気で、わりとゆったりとした成長曲線を描いていた。

あんまり頑張る気がなかった俺の成長曲線はみるみる緩やかになっていき、数年経っても一人前にならなかった。それでも年次を重ねていくにつれ求められるものが増えていき、いかに自分の能力を上げないまま怒られずに一日を終えるか、ばかり考えるようになっていった。

 

基本戦略は、定期的に新しいことに取り組むようにすることだった。

一見すると、同じことを繰り返していたほうが楽そうだが、サボりのテクニックとしては難しい部類だ。というのは、慣れてくると一定以上の仕事のスピードが求められるようになるからだ。「不慣れで作業が遅いのはわかるけど、慣れてたらこんなに時間かかるわけないよね?」と。

新しいことに取り組めば、つまずいている時間、何かを調べている時間、遠回りをしている時間など、見積もりの難しい作業時間がたくさん発生する。これらの時間全部にサボりを挟み込んでいく。逃避に逃避を重ねていく。心苦しさが一定値を超えたら、翌日に使う言い訳を考える。そうすると少しだけ気が楽になる。

 

そんなことを繰り返して生活してきたわけだけど、さすがにそろそろ厳しくなってきた。

具体的にサボりがバレたとか、怒られが発生したとかではない。気を強く持てばまだ粘れるのかもしれない。だけど、目をそらしてきたこの生活の有限性をとうとう強く意識してしまったのだ。

そんな折、会社の事情で一時的に仕事が止まり、余計なことを考える時間が生まれてしまった。それで貯金額を計算してしまったのだ。

 

学生時代の自分なら、まず確実に会社を辞める選択は取らなかっただろう。だって生涯年収が減るだけじゃん、と。

でも今は心の中の悪魔がささやいている。貯金増やして何がしたいの? お金は使うためにあるんだよ、と。

 

一度傾いた思考の流れは止まらない。

一年くらい何もしないというのは人生において必要な期間なんじゃないか? バイトでもしながら延命すれば一年以上暮らせるんじゃないか? そもそも今の仕事を続けた先に理想の人生があるのか? ないとわかっているのなら選択肢は一つじゃないか!

 

……わかってる。わかってるんだ。だからって会社を辞めるべきじゃない。せめて転職だ。フリーターなんてやるもんじゃない。

頭でそう思っているだけじゃない。検索だってしてみた。

フリーター、退職、無職、フリーランス……。どれを検索したって次にサジェストされるキーワードは「やめとけ」だ。

成功者のブログ記事も散見されるけど、そんなのは生存バイアスだろうし、中身をよく見るとたいてい情報商材やスクールの宣伝だ(「やめとけ」のほうの記事は転職エージェントの宣伝だったりするから、どっちもどっちなのかもしれないけど)。

 

税金や年金、保険料は概算した。賃貸の審査が通らなくなるのは困るけど、当面引越しの予定はない。一生働かない気ではないし、一時的なものなら問題ないように思える。人との関わりが減るかと言うと、もとから在宅勤務だったので影響は微小。

こんなときばかり調べごとが捗る。少しわくわくしている自分がいることに気づく。大変危険だ。少なくとも、これがいっときの気の迷いでないかを確認しないといけない。

 

それで、一週間の休暇をとった。

この一週間で無職の生活をロールプレイし、感情の変化を探るつもりだ。

変に悩まずにサクッと退職してしまってから考えたほうがいろいろうまくいくような気もするのだけど、一週間後にどういう感情になっているのか楽しみだ。一週間後もこんなポジティブな気持ちでいられているのだろうか。

動画編集とか、できたほうが良くね?

世の中にはコンテンツがあふれている。小説、漫画、アニメ、ゲーム……etc.

 

中でもYouTubeは俺の時間を最も奪っているコンテンツだ。ゆるせん

 

最近小説を書いているのだが、いや正確には、書こうとしているのだが、誘惑が多すぎていっこうに進まないのだ。

 

で、なぜだか突然動画編集について調べたくなった。試験勉強しなくちゃいけないのに資料集を読み始めてしまう、あの病気が発症したのだ。

 

絵をかいたり、音楽を作ったりといったクリエイティブなことはスキルがないと始める気にならない。でも動画ならいけそうな気がしたのだ。理由は(こう言っちゃアレだけど)、そのへんのYouTuberでも編集できているし、スキルとしては大したことないんじゃね?と思ったから。安直だし最悪の理由。

 

それでいろいろ調べてみた。完全に知識ゼロの状態から始めたので紆余曲折あった。

 

まず想定していたのはゲーム系の動画みたいにPCの画面を録画して編集するという動画。だからまずは録画ソフトから調べ始めた。

どれが最適な選択肢なのか検討するためにいろいろ調べたのだけれど、これは普通に時間の無駄だった。というのは、必要なのは素材となる動画データであって、録画ソフトは何でもいいからだ。なんなら用途に応じていくつかを併用したっていい。それに気づくまでに3時間くらいかかった。わたしってほんとばか

 

いちおう調べた結果を書いておくと、Windowsに標準で搭載されてるGame Barってやつを使えばいいっぽい。他にもGeForce ExperienceとかOBS Studioとか調べた。音声が要らないならsnipping toolというのもWindowsに標準で搭載されてる。

 

録画のことがわかったので次は編集ソフトの調査に移ったわけだけど、これは選択肢が多かった。そして、これは慎重に選ぶ必要がある。なぜなら、動画編集の技能 ≒ 編集ソフトの習熟度だからだ。

選定基準として、まずWindowsで使えるものが欲しかった。macも持っているのだけれど、Windowsのほうはゲーム用にスペックを上げてあるからだ。デスクトップなのが欠点と言えば欠点だが、どうせ外で動画編集なんてしない。そもそもノートPCだって家の外に持ち出すことはほとんどない。

他の選定基準として、できれば無料で使えるものがよかった。無料だと露骨にやれることが制限される、とかなら有料ソフトも検討に入れるか、くらいのスタンス。ちょっとふらっと始めてみるか~という人にとって有料か無料かはやはり大きい要素だから。

そして最後の一つが、利用者の数。この手の技術っぽいことはたいていなにかしら行き詰ったりするものだ。だから、検索性の高さが重要になってくる。できれば日本語で情報が豊富に出てくると嬉しい。

 

それらの条件を満たしたのが、DaVinci resolveだ。

これは有料版もあるのだが、ほぼすべての機能が無料で使える。しかもウォーターマーク(電子すかし)も入らない。これが求めていたものだ。

使い方はいろいろ調べてみたのだが、YouTubeで解説動画を見るのが手っ取り早かった。いくつかの動画を見れば動画編集の一連の流れがつかめる。あとはやりたいことが現れるたびに個別に調べていけばいい。というか、概観をつかんでからでないと検索も一苦労だ。

たとえば動画の(空間的な)一部分だけを切り出す行為を何と呼ぶか?

トリミングかな~?と思って検索してみると思ってたのと違う検索結果に出くわすことになる。

正しくは、クロップだ。もしかしたら編集ソフトごとに呼び名が違ったりするのかもしれないが、たぶん他の編集ソフトでもトリミング以外の名前がついているはずだ。

こういう検索に時間をかけているともともとやりたかったことを忘れたり、疲れてしまったりするので、手っ取り早く動画で見て覚えてしまったほうが良いという教訓になった。

 

そういうわけでゲームのプレイ動画を適当に録画し、適当にカットして適当にテロップをつけ、適当に編集してみたところ意外とあっさりそれっぽい動画ができた。

もちろん細かいことにこだわりだしたら無限に時間がかかりそうだけど、それでもよく使う機能をテンプレート化すればたぶん動画編集って思っていたより短時間でできる。

 

それがわかったところで実際に動画作って投稿してみよう!となればよかったのだけれど、そこで俺の悪い癖が出た。

なんとなくやり方がわかってしまうと途端にやる気を失うというか。

たとえば英語の勉強は文法を覚えたところで飽きたし、漢文の勉強も返り点の学習をしている間が楽しさのピークだった。

なんか具体的な行動に結びつかないと意味ないのにね。一生言ってる。

 

ま、それはそうと動画編集のやり方はわかったのだ。これで表現の幅が広がるかもしれないし、いつかへの伏線になるのかもしれない。完全無駄な知識になることは絶対ないスキルだと思うから、とりあえず5年くらい寝かせておこうかなと思う。

 

 

あ、どうも、5年ぶりの更新です。