夜、コンビニからの帰り道に見える高いビルがある。
周囲の道や建物が絶妙な配置を成しており、距離がありながらも堂々とした風格が感じられる。
辺りのビルが夜空に溶け込む中、不気味に光り輝くそのビルはかえって輪郭が強調され、自然と視線を惹きつけるような独特の魅力がある。
深夜に出歩いているとき特有の高揚感も相まって、現代版の魔王城ってこんな感じなのかなあ、などと考えながら何年もの間そのビルを遠くから見上げていた。
RPG的世界観のファンタジーにおいて、大半の村人にとって魔王城はシンボルでしかなく、実際に訪れたり、ましてや魔王を討伐しに行ったりするなんてことはない。私にとってもそれは同じで、日常的に見上げていながらも、そのビルは長らく生活とは無縁の存在だった。
ところがあるとき、期せずしてこのビルに通うことになったのである。
このビルの名はサンシャイン60。
池袋のサンシャインシティにある最も高いビルだ。
サンシャインシティにはいくつかの建物があって、その多くがショッピングモールやレストラン街、水族館などのアミューズメント施設になっているのだが、サンシャイン60は異質で、ほとんどのフロアがオフィス用となっている。
通うことになったのは、その三階。ハローワークである。
平日の昼間であってもショッピングモールは賑わっている。そんな人だかりの間をすり抜けるように歩いていくと、途端に静かな空間にたどり着く。そこがサンシャイン60のエレベーターホールだ。オフィスフロアへ向かうのであろう、スーツ姿の人が数名いるほかは誰もいない。
まるでボス部屋の直前に敵の現れないエリアがあるような、そんな不気味な印象を受ける。
このフロアには三十七台ものエレベーターがあるにもかかわらず、目的地である三階に止まるエレベーターは存在しない。向かうにはホールの中央にあるエスカレーターに乗っていく必要がある。ラスボスへの専用通路を通っているような独特の緊張感がある。
三階まで上がると、門のような形のコンクリート壁が出現する。そこには大きな青色の文字で「ハローワーク池袋」と書かれている。これがボス部屋への最後のゲートだ。
同じフロアにレストラン街への通路があるのだが、エスカレーターに乗っている人がどちらに向かおうとしているのかは容易に推測できる。有り体に言って、身なりや雰囲気に明瞭と言っていいほどの差があるのだ。かく言う私自身もよれたTシャツの上から適当な上着を羽織っただけの格好をしているし、他人から同じように思われているに違いない。
そう考えると、我々は魔王城で働く雑兵なのではないかと思えてくる。魔王城へ向かうのは勇者一行だけではないのだ。きっと私はゴブリンか何かなのだろう。もしかすると勇者一行と戦う仕事すら与えられていないのかもしれない。
ゲートをくぐって中に入ってみると、(当たり前だが)そこに魔王はいない。入り口付近には明るく広いスペースがあり、壁の掲示板には求人がいくつか掲示されている。
このスペースの明るさは不思議で、入ってくるまでの緊張が無意味だったような気がしてくる。オフィスによく使われているような、ただの白い蛍光灯なのだけれど、やけに明るく感じられるのだ。おそらく無職でいると、この手の明かりの下に出る機会がなくなるのだ。
住宅に使われる明かりとは色や明るさが違うし、飲食店やその他の遊びに使う施設はもっとおしゃれな明かりを使っている。病院はもう少し薄暗い感じだし、あまり広々としてもいない。
区役所や郵便局は近い雰囲気かもしれないが、こういったところへ行く頻度は低いし、カウンターの向こう側とこちら側に大きく仕切られている感じが若干異なる雰囲気を醸し出している。ハローワークにもカウンターはあるのだけれど、”こちら側”の領域が他の役所よりも広いのだ。
その点は病院に似ているのかもしれない。あるいは、学習塾の雰囲気にも少し似ている。
入ってくるものを拒まないような印象を与える空間デザインなるものがあって、そういったものに力を入れているのかもしれない。
廊下を進んでいった先に広い部屋があり、そこは大きく二つに区分けされている。一つは就職支援を行う課で、もう一つは給付課と呼ばれる失業保険などの給付に必要な手続きを行う課だ。
就職支援課の前には受付があり、整理券を受け取ってから奥へ進んでいくことになる。
ここは職業相談を受けるための場所だ。中央に待機スペースがあって、端を囲うようにカウンターがある。カウンターはパーテーションで区切られていて、一つ飛ばしくらいの間隔で相談員が並んでいる。
職業相談の進め方は相談員の裁量に任されていて、人によってかかる時間も紹介される求人も大きく異なる。どの相談員にあたるかは完全に運なので、ハズレの相談員に一度あたるとしばらく職業相談に行きたくなくなる。失業保険を受け取るためには四週間ごとに最低二回、職業相談を受けるか求人に応募する必要があるので、嫌な方から逃げた先にあるどちらかを行うことになる。このせいで魔王城に何度も通う羽目になるのだ。
給付課はいかにも役所といった雰囲気のあるところだ。職員は非常に事務的で、人々が持ってきた書類を機械的に処理していく。書類に不備があると笑顔も見せずに突き返してくるので、たまに求職者との間で喧嘩になっている場面に出くわすことがあるのだが、私はどちらかというとこの給付課の職員たちの方が好きだ。やるべきことさえきちんとしていれば、なんら不利益を被ることはないからだ。相手の行動が自分の行動によってのみ決まっているという感覚が、私に安心感を与えてくれる。
ここでの不満は待ち時間が長いことだ。給付課には四週間に一回通うことになるのだが、行くべき時間が三十分単位で定められている。言われた時間に行かなくてはならない。午前中はとても混雑していて、椅子に座って待つこともままならない。運良く午後が指定されると、求職者は午前の半分くらいしかいないので混雑を避けることはできるのだが、対応にあたる職員も半分くらいに減らされていて、結局午前と同じく一時間以上待たされることになる。読書が捗るので、どちらかといえば有意義な時間ではあるのだけれど。
そうして手続きが終わった後は、ショッピングモールがある区画に戻り、食事をしてから帰るのがいつしかルーティーンとなっていた。落ち着いて食事をしていると、なんだか現世に帰ってきたような感覚になるのだ。
行きは煩わしいと感じていた人混みが、むしろ自分にとって大切なものであるように思えてくる。自分はまだ今まで通りの日常の中にいるのだと、そう教えてくれるような感じがするのだ。映画館から出たときの感覚に近いかもしれない──。
そんな魔王城に通っていたのも、もう半年以上前の話だ。
失業保険がもらえる期間には制限があって、給付が終わればハローワークへ通う必要はなくなる。
じゃあそれ以降は何をしていたのか。それに答えるのは難しい。期間に見合うほどの有意義な日々は送れていなかっただろう。
だが最近、運良く私を雇ってくれる会社に出会うことができた。想定よりもはるかに長くなった無職生活も、とうとう今月でおしまいだ。この生活を締めくくるにあたって、何も進まなかった自分の生活を振り返ってみようと思った。何も進まない中でも、何か得たものはあったのだと信じたい。そんなふうにして得た思い出や記憶を、形にしておきたいと思ってこの文章をしたためた。これが未来の私にとって、あるいは誰かにとって、有意義なものになってくれたら嬉しく思う。
魔王城は今夜も妖しく輝いている。私がそこに通っていようといまいと、それは変わらない。通り過ぎた過去にも、連綿と続く現在がある。そんな印象を抱いた。
未来は見通せなくても、過去は何かを残す。将来ふとしたときに魔王城を見上げ、そこへ通っていた日々を思い出すことがあるだろう。きっとこの記憶が未来の私の力になってくれる、そんな予感がしている。
だってそうだろう? 魔王城には魔力が宿っているのだから。